咖哩的小故事

2013年10月31日 23:27

  右一 我們的外公

 

話說我們家與日本的淵源應該是始於民國34年也就是日本昭和20年(1945)中日戰爭休戰後,日本無條件投降,台灣的日據時代也因此結束,同時也推開了我們家與日本間的門隙。

 

 「私たちの家族と日本のルーツは、中華民国34年、日本では昭和20年(1945年)、日中戦争の休戦後に日本が無条件降伏し、日本による台湾の占領時代が終わるとともに、私たちと日本への扉に隙間ができたことから始まります。

 

應該大家有聽過二二八事件吧!這事件就是發生在日據時代結束後,國民政府遷移來台時所發生的變動。對!所有故事就是源起於民國36年(1947)2月28日。 這個事件在當時造成社會極大的動盪,而我們的外公是小學校的國語老師(當時是教日語的知識份子)因此也莫名的被捲入其中。外公他為了逃離事件的牽連,與幾位同鄉一同計畫搭乘漁船載著台灣的糖製品前往日本販賣來躲避風聲,但在途中不幸遭遇了暴風雨,僅有的糖製品因為完全泡水而無法販賣,漁船損毀失去動力而在大海中漂流,直到3個月後才被經過的輪船救起,被安全的送至外公意外的目的地 “日本九州---熊本”。

 

皆さんの誰もが「二・二八事件」のことを聞いたことがあると思いますが、この事件は、日本の植民地支配が終わり、国民党政府が台湾に移ってきた時に起こりました。 そういうわけで、物語は、中華民国36年(1947年)2月28日に遡ります。  この事件が起きた時、社会情勢が不安定な中で、小学校の教師(当時は日本語を教えるための知識人)をしていた祖父も、事件に巻き込まれました。

祖父たちは、事件から逃れるため、同郷の仲間たちと漁船で台湾の砂糖製品を日本に販売しようとしましたが、不幸なことに途中で暴風雨に遭い、わずかな砂糖製品も売り物にならなくなり、漁船は破損により動力を失って大海を漂流し、3ヶ月後にようやく通りかかった船に救助され、目的地としていなかった「日本の九州の熊本」に送られました。

 

當外公離開臺灣時,我們的媽媽還在外婆的肚子裏,所以母子倆無法跟著外公冒險而被迫隔離兩地。就這樣隨著歲月飄逝,數年後政局穩定,外婆意外得知外公人尚存活,但因為當年的事件,迫使外公隱姓埋名的在日本熊本縣荒尾市經營 小本生意的食堂『扇屋』來維持生計,也結婚另有家室,然而當時日本與臺灣間交通不便,十數年後外公經常想盡辦法回來看媽媽,多年來父女間關係依舊密切。

 

祖父が台湾を出発するときに、祖母のお腹には私たちの母親がいたため、祖父の無謀な冒険について行くことができず、二人は離れざるを得ませんでした。 月日は流れ、数年後に政局が安定し、祖母は祖父が生存していることを知りましたが、この事件のために、祖父は名前を隠して、日本の熊本県荒尾市で家族経営の食堂「扇屋」を開いて生計を立て、別の人と結婚しました。当時は日本と台湾との交通が不便だったが、数十年後祖父は出来るだけ母を会いに台湾へ通っていた、その為、長い間父と娘の関係は断絶される事はありませんでした。

 

左-日本外婆 中-高媽 右-大阿姨

左-日本外婆 中-高媽 右-大阿姨

左-高媽 右-大阿姨

左-高媽 右-大阿姨

 

媽媽終於在成人之後(民國60年/1971)渡航到熊本縣荒尾市並與外公一家人一同生活,幫忙經營食堂『扇屋』,同時也開始接觸日本的語言 飲食與生活文化,媽媽常作給我們吃的日式料理以及咖哩飯就是那時跟外公以及日本的外婆學來的,難怪那麼道地又充滿了家鄉味!

 

母は成人になってから(民国60年/1971年)に熊本県荒尾市に渡り、祖父と一緒に生活を始め、忙しい食堂「扇屋」の経営を手伝いました。それと同時に、日本語や日本の食生活や文化に触れ始めました。だから、母がよく私たちに作ってくれる日本式カレーライスや日本料理はその時祖父や日本のおばあちゃんから教わった物で、本格的な日本のお袋の味であることも不思議ではありません。

 

高媽 -民國60年(1971)

高媽 -民國60年(1971)

今年(2013),我與媽媽大阿姨一同回到當時外公住的地方“熊本縣荒尾市”去追遡我們家與日本的淵源想瞭解當時的生活,便由日本的大阿姨當嚮導,讓我看到了時代的變化,過往繁華之地已由平房變成高樓大廈,交通網密佈。但是,最令我們驚奇的是……外公當時所開的食堂所在地的那一條商店街依舊存在,而且,食堂的店面也毫無改變,只是經營者不一樣而已,而店面的感覺似乎是一模一樣,彷彿像是做了一趟時空之旅,當下我們打開店面的手推門時,一邊想像著,從裡頭出來招呼我們 也許就是離開我們已有 25年的外公也說不定....

 

今年(2013)、私と母は、日本の叔母(大阿姨)にガイドしてもらい、当時住んでいた「熊本県荒尾市」へ、私たち家族のルーツや当時の生活を解き明かす旅に出かけました。 時代の変化により、当時の繁華街は高層ビルとなり、交通網が張りめぐらされていました。しかし、私たちを最も驚かせたものは・・・祖父が開いた食堂や商店街がそのまま残っており、そのうえ、食堂は、改装もされずに全く変わっていなかったことでした。 経営者は変わっていましたが、店の面影は当時と全く同じで、時空の旅を彷彿させるものでした。 店の戸を開けながら、思いました。ここは、祖父が私たちを迎えるために25年間残しておいてくれたものなのかもしれません。」

 

by 七浦 禎蓮/高 禎蓮   Wawa Nanaura